『土佐三十絵図』(坂本義信版画集)
土佐三十絵図--作品と解説
◆ 制作:1932~1935
◆ 解説:196?(制作者)
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坂本義信と『土佐三十絵図』
坂本義信は1895(明治28)年高知県高岡郡窪川町に生まれた。
1917(大正6)年高知県師範学校卒業後、7年の義務年限を終えると上京し、太平洋洋画研究所に学び、 又高知県出身の石川寅治に師事して洋 画を学んだ。その頃、石川寅治は木版をやっていて、 後年坂本義信が『土佐三十絵図』を版画で制作するきっかけとなった。
文検に合格したあと高知県に帰り中学校の図画教員になり、1927(昭和2)年佐川高等女学校に赴任する かたわら当時高知県では珍しかった木版画の勉強をした。2年後高知市の海南中学校の教員となる。 海南中学校は、土佐藩山内家の創設した中学校であって、後に城北中学校 と合併して、 高知県立海南中学校となるが、坂本義信はここで山内家の山内豊中少将と近づきになった。
1932(昭和7)年よりとりかかった『土佐三十絵図』は、交通不便の頃で殆んど歩いて取材し、 又学校勤務の余暇に制作したため、時間も少なく苦労は大変なものであったが、 山内豊中少将より『土佐三十絵図』を完成するよう励まされ、完成すると山内家に二部買上げられることになる。
1935(昭和10)年春、県公会堂で開かれた土陽美術展に出品して話題を呼び、洋画家藤田太郎が 『土佐三十絵図』を讃えた記事が新聞にのり、木版画に対する知識が一般に普及する。 県立図書館長中島鹿吉や知事泊武治に激賞され、更に三笠宮様に献上をとの光栄に浴することになる。 佐川出身の田中光顕伯、当時の軍令部長永野修身大将らに買上げられ、永野修身大将からは三十絵図を讃えた 揮毫までいただいている。
終戦後、1946(昭和21)年、当時高知進駐屯英軍情報部ビール・コステル軍曹は、 オーストラリアで美術研究家として知られていたが、『土佐三十絵図』の事を知って、坂本義信のアトリエを訪ね、 日本の版画制作過程を見学、『土佐三十絵図』を絶賛する。 ついでアメリカの軍政部コープ、キンザー両大尉、ファーレー、ミクソン両中尉などが画伯のアトリエを訪れては 作品を鑑賞『土佐三十絵図』が数十部海を渡ることになる。 翌1947年、アメリカ、クリーブランドの万国美術観光ポスター博覧会に、本県を代表して『土佐三十絵図』が出品され、 戦後の日米親善には『土佐三十絵図』は重要な役割を果たして来た。
しかし、時代の移り変わりはいつしか坂本義信の版画も人の噂から消えてしまい、 ただ1953(昭和28)年1月6日より、朝日新聞に『土佐十五景』として『土佐三十絵図』のうち15景が 紹介されただけであった。 『土佐三十絵図』は戦後50部刷られ高知在住の愛好家に所蔵されたが、 現在その所有がわかっているのは数部にすぎない。戦後刷られた『土佐三十絵図』は「山内神社」と「桂浜」がなくそのかわりに 「鏡川」と「八洲 」が挿入されている。坂本義信の版画は高知県の版画美術の草分けともい うべきもので 『土佐三十絵図』以外にも、風景、静物等の作品がある。
元来版画は絵と、彫りと、刷りと全部を作者の意図のままに個性を盛り、 それぞれの仕事に統制をつける所に意義がある。坂本義信の版画は洋画家出の人らしい水彩画の技法を思わす 風景スケッチで、郷土を愛し、明朗でまじめな人柄がよく出ているといわれる。